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全ての私の作品はあなたの中に飛び込むためのダイビングキット。
それは、己の些細な部分をも曝け出していく、一つ一つの事象が絡み込んでいく、トウシンダイの生き様。
熊本で私は生きている。でも
熊本城周辺に来ると、まるで小旅行気分。それは、ここを知らないから。
だから知ろうと旅とゴミ、知って聞いたら裏表、見栄と本質見え隠れ、ならば私が脱ぎましょう。
褌はいて見ず知らず、行くか戻るかどうしよか、そこで思うは友の死か、それを曳き引き確かめる。
ふと気付けばもう終わり、そんな筈はと見渡せば、うつくしうつくし何もかも、ゴミも宝も皆同じ。
何かたたいてみましょうか、何か踊ってみましょうか、私とあなたは天と地と、まるで逆でも常共に。
そんであなたは笑ったら、私も思わずにやけてた、そいつはいいやと奴さん、気付けば皆死に向かう。
ゴミは美しいし、熊本の人間もゴミを介して話しただけだけど、美しい人ばかりだった。
ゴミという、“ただ捨てられていくだけの存在”を介してという「0」以下の意外な部分から発生するコミュニケイションは
無限の豊かさへの可能性を感じた。
ゴミをもって板も素通りの人も要れば必死でバックの中を想像力を働かせながら必死で探してくれる人もいる。
そういう、皆が皆ではなく、どっちもいる、街頭アンケートやチラシ配りやセールスみたいな普通のことをしているんだけど、中心にあって、つなげてくれるのはゴミなのである。ゴミもこんなに美しい。パフォーマンスをしてみて改めて私自身が思い知った。
つまり、“意識上、意識下における死”がすべての源であり、私の制作の根源と言える。
そして、目の前の“死”に対して私たちは、もっと美しさを感じていいと思う。
そうなれば、この表層だけ、ネットワークだけで済んでしまうような“死”が観えなくなっているずれた社会構造とその諸悪が本当の意味でゴミになってくれればと思う。そのゴミを糧に美しき平和を少しずつでも等身大で築き上げて生きたいものだとつくづく思い、また絵を描き現代では死物になりつつある褌になり、必死にまた拝む。
ここで言うゴミとはただのゴミではなく、不必要とされたりかるんじられたり、覆われいかにもこの世に存在しない若しくは悪い事のようにされている事や、俺の17歳の時に授かった子、死んでしまった友人のような不本意ながらにして“死”を受け入れざるを得なかった生をも含み、妻との性、ここ熊本で授かった二人の息子たちの生の大切な土台でもある。